病棟日記 その8

アンユージュアルな体験
入院8日目

昨日、再び様子を見に来てくれたメーテルさんに、帰り際、少し声を潜めて私の感謝の気持ちを伝える事ができた。私自身のというより、ほとんどお隣さんの気持ちを代弁するかのような内容になってしまったが、カーテン越しにずっと癒されてきた事も忘れず付け添えた。メーテルさんは、最初驚いたように瞳を丸くし、やがてその深い瞳の色を一層濃くして、こう答えた。「そのお言葉を励みに、これからも精進いたします」

精進などしなくていい。
仕事なんてできなくていい。
だたそこにいてくれさえすればいい。
私の心の声はそう叫んでいた。

昨日はその後、アルチンゲール氏にも思いを伝えるチャンスがあった。彼も恐縮したように丁寧にお辞儀をし、「メーテルさんに比べれば、僕などまだまだです。これからも勉強させてもらいます」と言った。あくまでも低姿勢。そこでふと、私はあることに気づいた。メーテル氏はアルチンゲール氏の先輩なのか・・・。
そして今日、新たな事実を前に、私の胸は歓喜に震えることとなる。

いつものように物静かに病室にやってきたメーテルさん。と、そこへ彼女を追うように慌てて入ってきた看護師さんが、点滴の針がどうのこうの。語尾が「~たらいいですか?」と、彼女に教えを乞うているではないか!
え?もしかして、メーテルさんベテランさん?
私の胸がなぜ打ち震えたか、もうわかっていただけますね。
これまでの彼女の患者さんに対する数々の神対応は、全て、彼女の経験に裏打ちされた技術の賜物である可能性が濃厚となったのです!元々の性格だとか、仕事ができない事と引き換えに~とかじゃなくて、あの神対応は、熟練された神業だったのでは??仕事ができないどころか、全てを完璧にこなすホンマモン。メーテルはプロ中のプロやったんやー!!!

どのような現場でもプロの働きを目の当たりにするのは気持ちのいいものだ。仕事ができるナイチンゲールもいると知った以上、私の胸のつかえは完全に取れた。安堵感が心を浄化し、体内に元気がみなぎるのを感じた。「病は気から」は本当だ。そして院内において、その気を送ってくれるのがナイチンゲールたちなのだ。

さあ、今日はもう50メートルダッシュも逆立ちさえもできそうな「気」がしている。昨日から寝返りも楽になってるし。よし!リリーちゃんが迎えにきた。今日は頑張りますわよーわたし。ところが、今日はそそくさとリハビリを済ませ、その倍以上の時間を恋のお悩み相談に費やすこととなる。病棟の誰もいない休憩室に二人で座り込み、すっかり心を開いてくれている様子のリリーちゃんが切り出した。
「この間、別れたばっかりなんですよ~」ふむふむ。それで終わるわけないよね、この話。ここからがスタートだよね。ということは、「あんたまだ、惚れてるね」(ちびまる子ちゃん風)。心は別れてませんな。互いの家族をも巻き込んだこの恋愛は、なかなか一筋縄ではいかなさそう。しかし、似たり寄ったりの障壁は、かつての私にもあったもんだ。こうやって親身になって話を聞き、多少なりともアドバイスができるのも、そんな経験のおかげだな。こんなところで今頃役立つなんてなぁ〜。

勢いと、とまどいと。若さの象徴を絵に描いたようなリリーちゃんの横顔を、西日が美しく照らしだしていた。若いって、マジいいな〜。一瞬真剣に嫉妬した。で、結局私たちが納得の上に出した結論は「押してもダメなら引いてみな」だった。

部屋に帰り、ぽっかり空いたお向かいのベッドがオレンジ色に染まるのをみて、急に寂寥感に襲われた。ああ、そうだった。もうアイラブTVさんはいないんだった。毎日が新鮮な驚きに満ち、目まぐるしく過ぎていく中で、彼女の事を書くスペースを確保できないまま今日に至ってしまった。私にとって今回の「気づき」のひとつでもある「感謝は惜しみなく」を教えてくれた重要人物なのに。

アイラブTVさんはお孫さんもおられる70代の女性。同じ日に入院し、お向かいのよしみで仲良くしていただいた。
ここ大部屋にやってきた日はTVに繋げるイヤフォンがなくて半ばパニックになっておられ、「これ、聞こえます?」と、ボリュームを最小にしてカーテン越しにどう聞こえるか、向かいの私の所へチェックしにこられたのが始まり。「私は多少聴こえても気にならないので大丈夫ですよー」とお応えし、それ以来、時々言葉を交わし、互いを励ますようになった。

「私、テレビがないとダメなんですよ~」と朗らかにおっしゃるアイラブTVさん、本当に好きなんですね、テレビ。翌日にはイヤフォンも手に入れ、毎日それこそ一日中TVに向かってらっしゃった。時々カーテン越しに聞こえる堪え笑い、漏れ笑いが、これまた微笑ましく、こちらにまで伝染して私も自ずと笑顔に。
笑顔の伝染のみならず、彼女の病院スタッフに対する感謝の念も、向かいの私に伝染した。彼女の感謝の言葉は惜しみない。
「〇〇さん、ごめんなさいね、ありがとう~」
「〇〇さんでしたよね、ご苦労様~」などなど。
いつも誰かに向かって謝辞を述べている。
さらに彼女の一歩上を行く凄いところは、感謝の言葉の前に必ず相手の名前をつけるところ。「ありがとう」と言われて嫌な気がする人はいない。ましてや、社交辞令からグレードアップした、そのひと個人に向けられたパーソナルな謝意である。アイラブTVさんに対するスタッフの扱いが少々手厚く感じるのは、なまじ気のせいではないだろう。
私もアイラブTVさんを真似て、謝辞の前に名前をと試みたが、何回かはネームプレートのチラ見がバレバレで、我が身の未熟さを思い知った。
この病棟日記ではずっと看護を施す人たちの言動にばかりに注目して書いてきたが、アイラブTVさんには、看護を受ける側としての姿勢、心得を教えてもらった気がする。

「綺麗な人やわ~と思っていたのよ~」。どこから見ても疲れ切った病人顔のおばちゃんつかまえて、こんなことが言える人、ひょっとするとそうなのかも?って一瞬いい気分にさせてくれる人。「もう歩けてるの?すごいすご~い!」と元気付けてくれた人。言葉でもって人を喜ばすことが自然にできる人。そんなアイラブTVさんが、今日、息子さんたちに連れられて退院していった。頭を打って歩けなくなったとおっしゃっていたが、本当によかったですね。スタスタと歩いて行かれる後ろ姿に再度大きく手を振った。

そして、今、私は病室の窓から赤く染まる街並みをひとり眺めている。夕食前のつかの間の静けさ。いよいよだな。明日には私も退院だ。あれ?もっとこう、やったー!的な気持ちの盛り上がりはないのだろうか。なんだこの喪失感は。心にポッカリ。なんの穴だよ、コレは。ええー!もしかして、アイラブTVさん・ロス現象??

いよいよ明日は病棟日記 最終回

つづく